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  • yugotanaka

有徴、無徴についての散文


先日は、久しぶりにダンサーさんとの即興公演での演奏でした。 山海塾の石井則仁さんの企画で、「有徴あるいは無徴」という公演。 このイベントタイトル自体が、コンセプトとなっていて、 オファーを頂いてからずっとこのことについて思考を巡らせていました。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  日本語では、「茶」といえば緑茶のことで、 紅茶を「茶」と省略することはできません。 一方、英語では「tea」といえば紅茶のことで、 「green tea」を「tea」と省略することはできません。 ここで、「茶」「tea」を「無徴」、「紅茶」「green tea」を 「有徴」といいます。つまり、「紅茶」「green tea」は、 「茶」「tea」にくらべて“徴(しるし)”を余分に持ってるわけです。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 考えてみると僕はずっと無徴なるものに憧れて音を出しているのかもしれません。 シタールを演奏していると、少数派であるために、自ずと有徴という分類に入ります。 音色もイロモノ的に扱われることも少なくありません。 誤解を恐れずに言えば、僕としては、その他たくさんある音を奏でるモノのうちの一つであり、それ以上でも以下でもないです。 というと、なんでもいいのか?と思われそうですが、もちろんシタールを弾いている理由はあるんですが、それは、他と比べてこっちの方が〜〜というような理由ではないので、 比較して査定して選出しているわけではなく、一言で言えば好きだから弾いています。 それは、ギタリストやピアニスト、もっといえばサッカー少年の好きだからやってる。と同じです。なんで?と聞かれてもそれ以上の理由はないです。 そういう意味において、僕にとってシタールはとても自然に無徴なものです。 そもそも音楽は無徴であるべきものとも思っているかもしれません。 シタールは、伝統的にもともとが即興の芸術であるインド音楽を奏でるために生まれた楽器なのですが、身体表現の即興は、もっとフリージャズ的というか、瞬発力勝負的な側面が強いものだと思います。だからこそ、会話的なコミュニケーションが言語以外で行われる面白さがあると思います。 インドに行き師匠から学んでいる即興芸術であるインド音楽は、そういう視点において 会話的コミュニケーションの要素ももちろんあるのですが、その対象が対ヒトというよりも、対ヒトあらざる何か。という要素が大きいように思います。 スピリチュアル的な話ではないです。 もっと精神的なというか、DNA的なというか、 そういった根本的要素にアクセスしていく性質が大きいように思います。 インド音楽のその点が圧倒的に素晴らしく、めちゃくちゃ優れていると思っています。 それは、代々受け継がれてきたガチでやばい本質を純度を保ったまま進化を続けていった伝統のなせる技だと思います。 身体表現と音楽表現の性質の違いはそういった点にあるんじゃないか。 以前から言葉にならないまま、そういう思考を繰り返しながら模索してきたのですが、 今回の公演でダンサーさんとの空間共有を経て、意見をいろいろ交換できたことは 言語化していくことへの大きな助けとなりました。 共通する部分として1人の方が言っていた言葉、 目も耳も使わずに気配でセッションしているというような意味の言葉を聴いて、 それはとても音楽的だなと感じました。 言語化がまだまだ途中で、言語化させないで感覚のまま浮遊させている思考については そのまま輪郭をつけないでおこうと思います。 なので、内容があっちこっち散らかって纏まりのない文章になってしまいましたが、 ここで一旦終わります。


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